2021年9月1日 掲載

研究資源アーカイブ通信〈22〉

アーカイブズと私(3)髙井たかね先生に聞く「田中淡建築庭園写真, 1967–2003」

  • 聞き手:齋藤歩(京都大学総合博物館)
  • 撮影:岩倉正司(京都大学情報環境機構) *写真1, 5, ポートレート

京都大学研究資源アーカイブは、2022年7月に「田中淡建築庭園写真, 1967–2003」を公開しました。学生時代、文化庁文部技官時代、京大人文科学研究所時代の三つの時期に田中淡(たなか・たん、1946–2012、京都大学名誉教授)が作成した調査研究活動の記録について、人文科学研究所の髙井たかね先生に背景や見どころを伺いました。

資料との出会い

────田中淡先生(中国建築・庭園史)の資料の存在を知ったのはいつですか。

髙井──たしか、私が大学院博士課程1年目の頃(1999年)です。当時、田中先生は人文科学研究所所属だったのですが、私のいた人間・環境学研究科で授業を担当されていました。その頃は、まだ田中先生の研究室には出入りしていなかったのですが、中国へ留学するための紹介状を書いてもらうことになり、初めて研究室に入りました。部屋に入るとすぐキャビネットが置いてあって、その中に緑のスライドボックスがずらりと並んでいました[写真1]。

写真1:スライドボックス

────田中先生は退職のときにスライドを処分するつもりだったそうですね。

髙井──はい。2010年に退職されていますが、その前から体調を崩されていたこともあって、なかなか部屋が片付きませんでした。5月の連休くらいまでかかったと思います。片付けの途中で、写真アルバムなどの資料が研究室前の廊下に置かれているのを見つけたんです。驚いて先生に尋ねたら、スライドも含めて捨てると言うんですよ。それはもったいないと、お預かりすることになりました。

────田中先生は2012年に亡くなられていますが、退職後に資料の内容について話すことはあったのですか。

髙井──田中先生が共同研究班で読み進めていた文献の訳注を『東方学報』第86冊(2011年8月発行)★1に掲載することとなり、その原稿づくりをすることになりました。そのときに、先生の写真資料から図版に利用できるものがあれば使いたいというやりとりをしました。写真資料の中身を全体的に見たのは、そのときが初めてだったと思います。

──資料の写真はすべて以下を参照しました。
「田中淡建築庭園写真, 1967–2003.」
https://peek.rra.museum.kyoto-u.ac.jp/ark:/62587/ar129288.129288

──本インタビューは、『京都大学総合博物館 ニュースレター』No. 52に掲載した内容の完全版です。
http://hdl.handle.net/2433/264926

★1────「方以智『通雅』巻三十八宮室 : 訳注(一)」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/147947

資料解説

下華厳寺薄伽教蔵殿

髙井──田中先生は、1975年に第一次古代建築友好訪華団の一員として訪中して以来、何度も中国を訪れ、多くの建築を見てまわっています。そのうち山西省大同にある下華厳寺(しもけごんじ)は中国古建築の遺構としては重要なもののひとつで、何度か訪れています。残された写真からは、1975年、1981年、1992年と、三つの時期を定点観測的に比較することができます[写真2]。


写真2:下華厳寺薄伽教蔵殿(上から、1975年、1981年、1992年撮影)
上:117_下華厳寺薄伽教蔵 正面, IRHu MIXED 2018/2/S1/002/0118
中:34-11_大同 下華厳寺 薄伽教蔵殿_81, IRHu MIXED 2018/2/S1/013/0168
下:794_下華厳寺薄伽教蔵殿, IRHu MIXED 2018/2/S1/063/0174
“田中淡建築庭園写真, 1967–2003.” 京都大学(資料所蔵=京都大学人文科学研究所,データ提供=京都大学研究資源アーカイブ).

下華厳寺の経年変化については、「ハゲの価値を見直そう」★2という随筆に詳しく書かれていますので、少し読んでみます。

「遼代の遺構である大同下華厳寺薄迦教蔵殿は、内部に遼代の塑像を安置し、その上に藻井(ドーム型化粧天井)を構成する貴重な実例であって、当初の古い彩色文様が遺っていることでも知られる。さすがに殿内の彩色は塑像とともにそのまま保存されているが、七五年、七七年当時に映した外観の彩色は剥げたままで、丹念に調査すれば当初の文様彩色の復元も可能だったはずなのに、八一年撮影の写真にはもはや無惨にも無味乾燥な代赭色一色に塗り替えられた情況が映っている。ことほどさように、調査年月が後になればなるほど、金ピカピカ古建築が増えている」

タイトルにある「ハゲ」というのは「剥げ」のことです。文中に「八一年撮影の写真」では塗り替えられているとありますが、1981年の写真を見ると、ちょっと黒ずんできていますが彩色は残っているようなので、これはおそらく1992年のことだと思います。1975年の写真では、全体的に古びた感じがわかります。よく見ていただくと、「古刹重新」と書かれた扁額(へんがく)の下あたりに彩色や文様が描かれているのが見えます。

────残された写真から、田中先生がどんなところに注目していたかがわかりますね。

髙井──田中先生が中国に行き始めた70年代には、中国建築を実際に見ている日本の建築史家は少なかったはずです。戦後日本の建築史家が中国古建築について残した写真記録、しかもカラーでという意味では、最も古い部類に入ります。その後何年か経ってしまうと「金ピカピカ古建築が増えて」しまうので、記録されてから半世紀足らずとはいえ、高い資料的価値があります。

★2────田中淡「ハゲの価値を見直そう」(『人文』第57号、京都大学人文科学研究所、2010、pp.1-5)
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/159002

華林寺大殿

髙井──これは福建省福州にある華林寺大殿(かりんじだいでん)の写真で[写真3]、1993年に福建省古建築調査をおこなったときの調査地のひとつです。長江より南では一番古い木造建築で、北宋初めのものと言われています。田中先生はずっとこの建物を見たかったようですが、ようやく訪れたときには大規模な解体修理がなされた後だったそうです。先ほどの随筆にも「中国建築の漆塗りは下地の麻布貼りと下塗りが異様に分厚く、さらに上塗りも厚いから、綺麗に塗り籠められた柱の表面をいくら撫でても賺しても、上から叩いてみても、柱の木肌は漆下地の厚化粧の下に深く埋もれているので、もともと表面に風触がどの程度あったのかなど知る由もなく、その柱が当初の部材なのか今回の修理で取り替えた新材なのかすら見当がつかなくなっていた」と書かれています。

それに続けて、「幸運にも大同上華厳寺大雄宝殿の修理現場で柱の漆塗り下地が剥げた補修中の実例を見たことがあったから、情況を推察することができたにすぎない」とありますが、そのときの写真が出てきました[写真4]。1992年に文物保護技術の学術交流に参加したときの写真です。文章だけを読んでいると、そうなんだなと思うだけだったものが、こうやって実際の写真を参照することができたことで、その背景が鮮明にわかるようになりました。

写真3:華林寺大殿(1993年撮影)
1050, IRHu MIXED 2018/2/S1/070/0150, “田中淡建築庭園写真, 1967–2003.” 京都大学(資料所蔵=京都大学人文科学研究所,データ提供=京都大学研究資源アーカイブ).

写真4:上華厳寺大雄宝殿、漆の剥げた柱(1992年撮影)
776_環氧樹脂塗布 上華厳寺大雄宝殿, IRHu MIXED 2018/2/S1/063/0156, “田中淡建築庭園写真, 1967–2003.” 京都大学(資料所蔵=京都大学人文科学研究所,データ提供=京都大学研究資源アーカイブ).

貴州トン族調査

髙井──少数民族である貴州のトン族の住居平面図(1990年)も残されています[写真5]。同じ場所を定点観測していると、その都度なにかしらの変化が見られますが、重要な建造物自体はわりと残ります。ですが、こういった住居の中の物の配置などは、いつでも消えるもので、通常は記録に残るものではありません。

写真5:貴州トン族住居平面図(1990年)
[貴州トン族調査1990年10月(H2年)], IRHu MIXED 2018/2/S5/259, “田中淡建築庭園写真, 1967–2003.” 京都大学(資料所蔵=京都大学人文科学研究所,データ提供=京都大学研究資源アーカイブ).

────図面から生活が感じられますね。

髙井──30年前の中国の、ある居住文化の限られた側面ではありますが、それでも、どこにどういう物が置いてあるかということが詳細にわかるのです。私も中国に留学していたときには調査をおこないましたが、古い家具などの物自体が残っているケースは限られていますし、その当初の配置となると、まったくわからないんですね。配置し直されていたり、後から持ってきた家具が入っている場合がほとんどなんです。ですから、家具を含めた生活財の配置までが描かれているのは、とても貴重な資料に思えます。

田中先生は建築史家で、もちろん建築の研究を主軸としてこられたわけですが、じつは、飲食史や、狩猟の論文も残しています。中国文化に対してかなり幅広い関心をもっておられました。建築単体ではなく、そういった居住文化の総体をとらえようという意識があったのだと思います。

────退職のときに写真は捨てようとしていましたが、ノートは残していたのですよね。もっと研究しようと思っておられたのでしょうか。

髙井──蔵書もかなり処分されていますね。建築全集のような大部の本も古書店に売ってしまわれました。退職してからやろうと思っていたテーマに関わるものだけを、取りあえず残したとおっしゃっていました。ですが、退職した年の秋に病気が発覚してしまったので、やりたかったことは、ほとんどできなかったと思います。残されたテーマのうちの幾つかは、こういった資料のなかにあるのだろうなと思います。

人的交流

髙井──1975年からの3回にわたる訪華団(1975年、1977年、1979年)の後の二回では、田中先生は事務局長のような役割だったのですが、ほとんどの参加者が田中先生よりも年上だったようです。このときの交流写真も、戦後に日中の建築史の学術交流が再開したときの重要な記録になるはずです。

1977年の写真を見ると、郭博(かく・はく)さん、この回の団長だった平井聖先生(東京工業大学名誉教授)が写っています。平井先生は、とくに住宅史の研究でよく知られている方です。郭博さんは、文学者、歴史学者であり、政治運動家でもある郭沫若(かく・まつじゃく)のご子息です。郭抹若は日本に留学し、また一時期日本で亡命生活を送っていました。郭博さん自身も日本で生まれ、京大建築学科の出身で、日本とのつながりがきわめて深い方です。そういった背景から、郭博さんと歓談する機会があったのだろうと推測できます。

田中先生のおじいさんは田中慶太郎という方で、文求堂という書店を経営していました。もとは四条河原町あたりに店があったらしいのですが、東京に移って、それから漢籍を扱うようになったそうです。その関係で、慶太郎さんは中国の多くの学者と非常に親しい交友があったんです。郭沫若も日本にいた時期に文求堂から本を出していました。こうした祖父の代からの中国との縁は、中国の著名な学者たちとの交流にもつながったのだろうなと思います。

────文求堂のことは、藤井恵介先生(東京大学名誉教授)が『建築史学』の田中先生の追悼文に書いていましたね★3。80年代の交流はどのようなものでしたか。

髙井──1981年から南京工学院(現東南大学)に留学していましたが、留学中にあちこちに旅行に行っています。当時は、外国人が自由に見学できない場所は多く、その地域の文物局などに許可を取る必要がありました。そんなわけで、許可を取った先々の研究者と一緒に撮った写真がたくさん出てきました。

また、スナップ写真をまとめたフォルダには、著名な庭園史学者である上海同済大学の陳従周(ちん・じゅうしゅう)先生、建築史の劉敦楨(りゅうとんてい)先生、建築・造園学の童寯(どう・しゅん)先生などが写っていますが、先生方の自宅にお邪魔している写真が多いんです。当時は田中先生もまだ若かったので、偉い先生方もあまり気構えずに自宅に招いて交流できたのではないでしょうか。

南京工学院の受け入れ教員は郭湖生(かく・こせい)先生でしたが、郭先生を通じて、南京周辺におられた有名な先生に紹介してもらっていたのだと思います。旅行に同行されたこともあったようですし、各地域の著名な研究者に会う機会も設けてくれたのでしょう。

北京の写真では、やはり著名な中国建築史研究者の王璧文(おう・へきぶん)、羅哲文(ら・てつぶん)の両氏、清華大学の先生方、楊鴻勛(よう・こうくん)先生と写っている写真などがあります。楊鴻勛先生は、発掘遺構からの建造物復元を多く手掛けられていて、中国社会科学院考古研究所におられた方です。

田中先生が中国に日本の建築史学者を連れて行くこともあるし、逆に日本に招くという交流もありました。1987年に京都で科学史のシンポジウムを開催したときには、郭湖生先生が来られました。楊鴻勛先生を人文研の外国人研究員として招聘したこともあります。留学期間は1981年から1982年の1年間と長くはありませんが、このときに各地へ出かけて多くの学者に実際に会い、人脈をつくっていたことが、その後の日中の学術交流に生きているのだということが写真からあらためてわかりました。

★3──藤井恵介「逝きて斃れず:田中淡氏追悼」(『建築史学』第62巻、2014、pp. 66-79)
https://doi.org/10.24574/jsahj.62.0_66

アーカイブズへの期待

────今後、この資料がどのように受け止められ、使われていくと思われますか。

髙井──実物の失われた古い時代の建築の研究では、発掘された遺構とともに、文献史料に頼らざるをえない部分がかなりあります。田中先生も、漢文史料を読み込んで研究する研究者というイメージが強いと思うのです。ただ、この資料を見ていると、その根っこにある気づきや問題意識のようなものは、中国に行って実際に見てきたもののなかから得ているのではないかと感じられました。そういった経験の重なりが、田中淡の学問を形づくっていったと思うのです。

田中先生は、中国はもちろんですが、日本の古建築もかなり見ていました。また、民家や村落なども見ていたようです。どうやらすべての写真が保存されているわけではないようなのですが、今回資料を見直して、若いときからさまざまなところへ行って、いろんなものを見ておられたのだなと、あらためて感じました。

抜けている部分があるにしても、今回データベース化されることによって、体系的に整理されたものを見ることができるようになりました。今後は、建築史などの研究者たちが、ここから何かを読み取ったり、問題を見出したりできるような、そういう写真の集合体として活用されることを期待しています。

髙井たかね先生

[2021年6月14日、人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センターにて]

髙井たかね(たかい・たかね)
1973年生まれ。京都大学人文科学研究所助教。中国家具・生活空間史。共著『清玩 文人のまなざし』(研文出版、2015)、訳書『中国文化財図鑑 第5巻 家具』(科学出版社東京・ゆまに書房、2016)、論文「黄図珌『看山閣集』閒筆にみる乾隆期の室内陳設」(『東方学報』(京都)第94冊、2019)ほか。