2024年12月18日 掲載
研究資源アーカイブ通信〈24〉
アーカイブズと私(4)田路貴浩先生に聞く「増田友也建築設計関係資料, 1930–1984(主年代1950–1981)」
- 聞き手:齋藤歩(京都大学総合博物館)
- 撮影:岩倉正司(京都大学情報環境機構) *写真8
京都大学名誉教授で建築家の増田友也が遺した膨大な設計図や写真等を2024年11月に全面公開しました。この「増田友也建築設計関係資料, 1930–1984」は、設計から教育研究にわたる増田友也の幅広い活動を記録したアーカイブズです。資料整理プロジェクトの代表を務めた田路貴浩先生に、その魅力と利用可能性について伺いました。
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資料との出会い
────2016年に調査に伺い、2017年から研究資源アーカイブの資料整理が始まりました。田路先生は、それ以前から資料のことをご存じだったと思うのですが、どういう流れで現在に至っているのでしょうか。
田路──2008年に前田忠直先生の後任として京都大学に赴任しました。前田先生が増田友也の図面資料を持っているというのはなんとなく聞いていましたが、その時点では、具体的な量や保存状態などは知りませんでした。私が資料をはっきりと認識したのは、おそらく2015年の京都工芸繊維大学での展示の際です★1。鳴門市市民会館と鳴門市庁舎の模型制作を担当することになり、その時、保存されていた図面を使用させてもらいました。展示が終わった後に、前田先生や実行委員の先生方から、資料の保管についてのご相談があり、京大で預かれるか検討することになりました。それで、前田先生のアトリエに資料を見に行ったのですが、その膨大な量に衝撃を受けました。それが実際に資料を目にした最初ですね。資料を受け入れたあと、どうしていいかわからず、解決策を探していたところ、研究資源アーカイブの情報をみつけました。
────電話をいただいて初めて打ち合わせしたのが、2016年の9月でした。
田路──増田友也は1914年生まれですから、私とは半世紀ほど離れていて、祖父母世代です[写真1]。私が大学に入学した1981年に亡くなっていますが、当時は専攻内のニュースとしても知りませんでした。ですがその後、増田先生の息子さんから模型制作のアルバイトの話が流れてきて、下鴨神社の近くの事務所、通称下鴨アトリエに通うことになりました。それが増田友也との最初の接点ですね。
写真1:智積院会館の前に佇む増田友也
資料情報:[智積院会館](部分), Ar MIXED 2017/2/S5-02/087
註
本インタビューは『京都大学総合博物館ニュースレター』No. 54に掲載した内容のウェブサイト完全版です。なお、ウェブサイト版の掲載にあたり資料群名の年代を1938から1930に変更しました。
URL: http://hdl.handle.net/2433/269465
参考文献
1──増田友也建築設計関係資料, 1930–1984(主年代1950–1981),
URL: https://peek.rra.museum.kyoto-u.ac.jp/ark:/62587/ar233036.233036
2──『増田友也の建築世界』(英明企画編集、2023)
★1──「生誕100周年記念建築作品展 増田友也」(京都工芸繊維大学美術工芸資料館、2015年10月26日〜12月12日), URL: http://www.museum.kit.ac.jp/20151026.html
資料解説1:京大会館計画案(1964–1968)
────京大会館計画案の見どころを教えてください。
田路──この計画は、京都大学の創立70周年記念事業の一環でした。西部構内一帯の再開発を目指し、複合施設として京大会館が計画されたのです。増田友也は1960年に渡仏していて、その時に研究室宛に送った葉書に「70周年記念事業は、僕のモニュメントにする」というようなことを書いています。実際に図面が残っているのは1964年以降の作成ですが、それ以前から設計の話はあったのでしょう。最初の計画案は、通路を軸に諸施設が結合したユニット型建築でした。この案をもとに募金が集められ、その後しばらく間をおいて、1966年春頃から設計が再開されています。
これはその頃に描かれた断面図です[写真2]。地面からすっと伸びた空間の上部には大型のアーチが浮いているように見えますね。鳥が翼を広げたような形です。先日、増田研OBの岡﨑甚幸先生にインタビューしたのですが、増田は大きく両腕を広げてこの形を表現し、「こんな感じ。こんな感じ」と踊りながら指示を出していたそうです。
写真2:「京大会館計画案(第3期)」断面図
資料情報:[断面図], Ar MIXED 2017/2/S3-01/031/090
1966年の12月頃には、集中的にスタディがなされ、翌年3月頃には計画案がほぼ固まります。しかし、予算の問題や学生運動の影響もあり、大規模な開発は見送られ、北側の体育館建設と、西部講堂付近の建て替えは切り離されることになりました。その結果、体育館のみを先に建設することになったのです。
1950年代の増田友也の建築は工学部校舎のような柱梁構造の建物が主流でしたが、1960年代からHPシェル構造が使われるようになります。1961年の鳥羽下水処理場では、京大の坂静雄先生が考えたHPシェルを4枚合わせた形、つまり構造によって決定された形をそのまま採用していましたが[写真3]、京大会館の頃になると、「構造で形を決めてしまっていいのか」と言い出します。建築家がつくるもっと造形的な形があるのではないかと考え始めたのです。そこで「構造的現実と表現的真実」という文章を執筆します★2。先ほどのアーチのような形は構造的合理性だけでは生まれてきません。造形とは単なる形のことでなく、光による見え方をも含んだものであり、そこが増田の興味のポイントだったようです。
────確かに模型による光のスタディが多いですよね。
田路──これは音楽堂の光のスタディです[写真4]。図面と写真とを突き合わせて見ると、何をスタディしていたかがとてもよくわかりますね。
写真3:「鳥羽下水処理場ポンプ場・管理棟」竣工写真
資料情報:[鳥羽下水処理場](部分), Ar MIXED 2017/2/S5-01/011
写真4:「京大会館計画案(第3期)」模型写真
資料情報:[京大会館計画案(第3期)](部分), Ar MIXED 2017/2/S5-01/034
★2──「構造的現実と表現的真実──中世的伝統の理解のために」(『NATIONAL DESIGN』1967);『増田友也著作集』第一巻(ナカニシヤ出版、1999)再録
資料解説2:京都大学総合体育館(1972)
────計画が縮小された体育館の見どころを教えてください。
田路──京大体育館の初期案は2つあって、私たちは山型案と十字柱案と呼んでいます。増田は十字柱案で建てるつもりだったようですね。かなり力が入っていて、多くの図面が残っています。1968年の年末には十字柱案が一応完成し、図面には「これで行こう」という増田のコメントが書き込まれています[写真5]。
写真5:「京都大学記念体育館計画案」立面図(十字柱案)
資料情報:[立面図], Ar MIXED 2017/2/S3-01/030/028
しかし、この案もひっくり返されます。放物線の屋根がなくなり、ルーバー案に変わります。変更には相当なショックがあったと思われますが、詳しいことは会議資料などを見ても出てこないので、変更の経緯はまだわかっていません。
資料解説3:鳴門市文化会館(1982)
────遺作と言われる鳴門市文化会館はいかがでしょうか。
田路──市役所、図書館、福祉会館、結婚式場といった施設が並ぶ鳴門市福祉会館計画(1972)があるのですが、その辺りが計画の始まりのようです。
────1972年は京大体育館が竣工した頃ですね。
田路──京大体育館は、当初、工場で製作するプレキャスト・コンクリートの縦ルーバーで計画されていましたが、実施案では工事費の減額を理由に現場打ちコンクリートに変更され、その際にあみだ型ルーバーになりました[写真6]。これより1年前に完成した豊岡市民会館(1971)では、会議棟のエントランスホールに縦ルーバーが実現しています。吹き抜けのルーバー越しに光が入ってくる空間で、これを大規模に展開したのが鳴門市文化会館だとも言えます。
────光の扱いは、立面図からわかるのでしょうか。
田路──そうですね。平面図だけではわかりにくいです。だから模型が重要です。内部をスタディするためにバルサ材の模型などもつくられています。豊岡市民会館では1面だけだったルーバーが、鳴門市文化会館では3面に拡張されています[写真7]。増田の頭のなかでは、おそらくルーバーによって包み込まれた光の空間が思い描かれていたのでしょう。
写真6:「京都大学総合体育館」東立面図(竣工図)
資料情報:京都大学70周年記念体育館_東立面図_1:100_10_決定図【71・6・22】岡本_棚橋, 増田友也(設計担当)_竣工図, Ar MIXED 2017/2/S3-01/003/010
写真7:「鳴門市文化会館」2階平面図
資料名:NACH2階平面図_1/200_SEP 8 1979, Ar MIXED 2017/2/S4-01/012/001
────光のスタディという意味では、京大会館計画案、京都大学総合体育館からずっと続いているのですね。
田路──増田は光について時々語っていて、なかでも厳島神社の万灯会についての記述は印象的です。船や神社の回廊を照らしたかがり火が、瀬戸内の海面に反射して海を真っ赤に染め、火の海のように見えるというようなことが書かれています。
また、博士論文ではアルンタ族の儀礼空間について書かれています。大地に浅い溝を切って両側に薪の山をつくり、夜になり火をつける。すると、ぶわっと燃え上がる。そういう光景を増田はさも行って見てきたかのように書いています(笑)。光がつくる時空間の現象が、頭のなかにありありと浮かんでいたのでしょう。
公開後の利用可能性
────資料公開後の利用のアイデアはありますか。
田路──多くの研究者にぜひ研究に使ってもらいたいですね。増田の建築論の現代的発展について考察するのに使えると思います。しかし、ちょっと興味があるという程度の層から、研究に使いたいといった層まで、多様な利用者が想定されるので、公開の仕方についても考えていかないといけませんね。オリジナル資料をどこまで見せるのか、利用者制限を設けるのか。そういう意味で、デジタルデータで公開することは、保存の観点からも非常に望ましいと思います。とはいえ、まだまだデジタル化されていない資料もたくさんあるのですが。
────現時点では、半数もデジタル化できていません。もっとも、アーキビストの中心的な仕事は目録をつくって資料へのアクセスを確保することのほうですが。
田路──いま建築学専攻内で議論しているのは、閲覧希望者にデジタル化の実費を負担してもらうことで、徐々にデジタル化を進めていくという方法です。閲覧希望者には、複写資料を提供することになります。
────20世紀に日本で活躍した建築家の資料をどう残していくかは、日本全体の大きな課題です。アーカイブズとしての包括的な資料整理は、日本では国立近現代建築資料館や教育機関で試みられていますが、まだ始まったばかりで、その公開も新しい試みとなります。保存や公開について、ほかに何かお考えはありますか。
田路──建物の保存問題は現在進行形で起きていて、増田建築もずいぶんと失われています。残念ながら、今後もどんどん失われていくでしょう。一口に建築保存と言っても、建築の本質を理解しないままに補強などで改変してしまっては意味がないわけで、増田建築の全体像をきちんと把握したうえでの改修工事が必要になってきます。そのため、今回のアーカイブズは大事な基礎資料になると思います。
研究資源アーカイブへの期待
────最後に、研究資源アーカイブに期待することはありますか。
田路──今回、資料整理の過程で展覧会を開催することになり★3、関係者へのヒアリングを実施しました。資料を見せながら話を聞くので、誰がその図面を描いたのかという情報から、当時の増田先生との関わりといった話まで、いろいろな情報を得ることができました。資料の位置づけを考えるうえでは、たいへん重要なことだったと思います。
────オーラルな情報をどう研究に使っていくかというのは、結構難しいところだと思います。アーカイブズの扱い方もオーラルな証言の使い方も、日本ではまだこれから試行錯誤が続く気がしますね。とくにオーラル・ヒストリーの聞き取りの作法のようなものは、社会学等の他の研究分野から学ぶ必要があると感じています。
写真8:「増田友也の建築世界」展の「鳴門市文化会館」展示エリアと田路貴浩先生
[2021年12月6日、総合博物館(映像ステーション)にて]
田路貴浩(たじ・たかひろ)
1962年生まれ。京都大学工学研究科建築学専攻教授。専門分野=建築論、建築設計。著書=『日本風景史──ヴィジョンをめぐる技法』(共編、昭和堂、2015 )、『分離派建築会──日本のモダニズム建築誕生』(編著、京都大学学術出版会、2020)。訳書=『ル・コルビュジエ──みずから語る生涯』(共訳、中央公論美術出版、2021)。建築作品=「ワテラス・スチューデントハウス」(東京都千代田区、2013)、「三輪山会館」(奈良県桜井市、2019 )。
★3──「増田友也の建築世界──アーカイブズにみる思索の軌跡」(京都大学総合博物館、2021年10月27日~12月12日), URL: https://www.museum.kyoto-u.ac.jp/special/20211027/