2018年8月27日 掲載

研究資源アーカイブ通信〈13〉

アーカイブズと私(2)出口康夫先生に聞く「上山春平研究資料, 1807–2002(主年代1933–2002)」

  • 聞き手:齋藤歩(京都大学総合博物館特定助教)
  • 撮影:平澤美保子(京都大学総合博物館事務補佐員)

京都大学研究資源アーカイブは、2018年5月に3年越しの資料整理を終えて「上山春平研究資料, 1807–2002(主年代1933–2002)」を公開しました。この資料群には、哲学者の上山春平(Shumpei Ueyama, 1921-2012)が研究活動において作成または収集した、手稿、ノート、スクラップ、複写物、書簡、写真等が含まれます。このうち今回が初公開となる初期草稿を中心に、文学研究科哲学研究室の出口康夫先生に見どころを伺いました。

事業化までの経緯

────上山春平先生とのご関係、資料との出会いからお願いできますか。

出口──大学入学以前から著作は読んでいましたが、僕が京都大学に入学したのは上山先生が退官される間際でしたので、お姿をお見かけすることはあっても、それ以上の直接の交流はありませんでした。ただ1984年3月の退官記念講演はのぞきにいきました。その後、私自身が西田幾多郎など京都学派の哲学や仏教思想に取り組むようになってから、あらためて上山先生の書いたものを読むようになりました。
言語学者である娘さんの上山あゆみさんとは、言語学と哲学との共同研究でご一緒する機会が多く、あゆみさんから僕の論文を春平先生に渡してもらったこともありました。でも、そのころは春平先生もすでにご高齢で、それを読んで評論してもらうとか議論をするということにはなりませんでした。
春平先生が亡くなった後、先生の田辺高校時代の教え子のかたから、京大でなにか追悼会のようなことをやってもらえませんかとの相談を持ちかけられました。最終的に文学研究科の応用哲学倫理学教育研究センターが中心となり、2013年12月23日の天皇誕生日に上山先生を記念する文学研究科の公開シンポジウムを開催することになりました★1。
シンポジウムが終わった後、あゆみさんから春平先生が遺された資料について相談がありました。膨大な蔵書のみならず、それなりにきちんと整理されている未刊行の草稿類もたくさんあるけれども、自分とは専門も違うし、どうしていいのかわからないので相談にのってほしいとのことでした。そこで、まず僕がざっと見たところ、憲法草案や御進講等に関する興味深い資料がたくさん残っていることがわかりました。これは歴史資料として価値が高いのではないかと思い、研究資源アーカイブにコンタクトを取ったのが2014年の春のことでした。
正式に調査を依頼したのが2014年5月で、8月に研究資源アーカイブのかたと上山家を訪問し調査を行い、整理費用等の見積もりをとり、10月にアーカイブ構築の申請書を提出しました。それが2015年の2月に採択されて、年度が変わった2015年4月から事業が動き出したわけです。

 

──資料の写真はすべて以下を参照しました。
上山春平研究資料, 1807–2002(主年代1933–2002), 京都大学.
https://u.kyoto-u.jp/kurra-ueyama

──本インタビューは、『京都大学総合博物館 ニュースレター』No. 43に掲載した内容の完全版です。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/234554

★1──上山春平記念シンポジウム
http://www.kyoto-u.ac.jp/
static/ja/news_data/b/b1/
news4/131223_613131924133.htm

資料解説

1:[カントにおける象徴の問題]

────まず注目すべきは卒業論文でしょうか。1943(昭和18)年7月と日付が入っています。

出口──上山は京都帝国大学の文学部を1943年の9月に繰り上げ卒業した後、すぐに海軍に入ります。この論文は、もう戦争にいくのがわかっている状況で書かれているはずですので、その緊迫感が読み取れます。例えば、論文の最初のほうで東洋と西洋を鋭く対立するものとして捉えたうえで、両立不可能な思想原理がこの大東亜戦争の背後にあるとの記述が出てきます。さらに、西洋近代ヨーロッパの克服は武力のみでは不十分で、思想的な超克もまた必要であると続けられています。
東洋と西洋を対峙させるのは、上山の師である田邊元を含む、典型的な京都学派の言説です。西田・田邊それからいわゆる京都学派四天王(西谷啓治、高坂正顕、高山岩男、鈴木成高)といった人たちが、当時、こういった言論を繰り広げていました。が、注目すべきは、学徒出陣でまさに戦地に向かおうとしている若い上山のほうが、非両立性をより一層、強調している点です。京都学派は、東洋と西洋の対立をここまで先鋭化しません。一見対立しているようだが、じつは根っこは一緒だとか、そういったよりマイルドな言い方もするわけです。
ところが上山も、上で紹介した箇所に鉛筆でバツ印をつけています[写真1]。戦争が終わった後に読み返し、戦地に赴く前で殺気立っていて筆が走り過ぎたと考え削除したのかもしれません。一方、戦後に書かれた上山の未公刊論文を見ると、西洋の民主主義と東洋、具体的には日本の天皇制は確かに異質だが、戦後日本の民主主義の課題は、この異質性を積極的に引き受けつつ、それらをともに含んだ国家を作っていくことにあると書かれています。ここには戦時中の考え方からの連続性と変化の両方が読み取れます。西洋と東洋の国家伝統を「異質」と見なす考えは戦後も一貫していますが、両者をともに全面的に肯定はせずに折衷的に受け入れていくことで、西洋の民主主義の直輸入でもなく、また戦前の日本とも一線を画す、新たな民主主義体制を作ることを目指すという独自の立場に向かったわけです。
戦中の学徒出陣の直前に書かれた卒論に時局的な言説を残し、それを後から消したうえで、戦後民主主義に関して折衷的な立場を標榜する。1943年から46年のわずか数年のあいだに敗戦と占領と新憲法の成立という大きな出来事が相次ぎ、それらに敏感に反応して上山の思想的な立場も動くわけです。そういう一連の流れがビビッドに読み取れるという意味で、これらの初期草稿は非常に興味深い資料だと言えます。

写真1:[カントにおける象徴の問題]
資料番号:FoLs MSS 2015/02/01-17-03

京都大学の文学部では卒論を保管していません。戦後の修士論文はすべて文学部の図書館に収められていますが、哲学系の卒論の場合は『哲學研究』という哲学科の機関誌にタイトルが載っているだけで、内容は保存されていません。また学徒出陣は2、3年間という限られた期間の措置でしたので、それを経験した世代も限られます。結果として、学徒出陣を経験しながら戦後の論壇で活躍する人が出陣直前に書いた卒論が公開されることは、これまであまりなかったのではないかと思います。その意味で非常に貴重な資料だと言えます。上山以前の世代の哲学者たちの卒論が著作集等で公刊されたことはありますが、それらは大概、戦争以前に書かれた論文です。

2:「憲法草案(私案)」「新憲法私案」「新憲法実施と日本民主主義」

────「連続性と変化」は、戦後に書かれた論文のどのあたりから読み取ることができますか。

写真2:憲法草案(私案)
資料番号:FoLs MSS 2015/02/01-06-02

出口──植民地で生まれ、内地の帝国大学に進学し、京都学派の影響を受けつつ、学徒出陣をして、九死に一生を得て生き残ったという経歴を持つ上山は、戦後、憲法改正をめぐって議論が沸騰する時代のるつぼに入っていくなかで、「憲法草案(私案)」「新憲法私案」(ともに1946)を書いたり「新憲法実施と日本民主主義」(年代不明)を執筆したりして、積極的に時代に応答していくわけです。とくに前者の憲法私案は、後年、上山が、戦後憲法を論ずるなかで、自分の半生を振り返りつつ言及することになる文章で、その存在は知られていましたが、今回はその原本が出てきたわけです[写真2]
本人の回想では、自身の憲法案と戦後憲法との類似点だけが強調されています。確かに類似点もあるのですが、資料現物と比較すると、今度は、違うところも見えてきます。ただ、このあとに書かれたと推測される「新憲法実施と日本民主主義」では、上山はその違いを乗り越える形で、戦後憲法を受け入れていくことになります。
自らの「私案」こそ日本の伝統に即したものだという自負を持っていた上山には、その「私案」と戦後憲法とのギャップは、日本の伝統と戦後憲法との落差として映りました。しかし、あえてそのギャップを戦争の遺産として受け入れることで、自身の立ち位置を定めていこうとします。日本の伝統と西洋民主主義は互いに異質だと認めつつも、最終的には戦後憲法の民主主義を受け入れて、その一環としての象徴天皇制も受け入れるということです。ここにあるのは、民主主義を普遍的な真理であるとか無条件に正しい政治体制として手放しで称賛するのではなく、それを戦争の遺産として受け入れることで、日本の国家体制を、日本の伝統と米国に代表される近代ヨーロッパの伝統とのヘテロ(異質)な接合体へと変革していこうとするスタンスです。上山本人が、このような考えを明示的に述べているわけではありませんが、その都度、立場を変えつつ書かれた初期草稿を通時的に読むことで、そういうスタンスが見えてきます。
こういった点も含め、上山の後年の憲法論や天皇論のおもな論点は初期の論考にほぼ出揃っていることもわかります。天皇は権威の象徴であって権力は持っていないのがむしろ日本の伝統だという考えは、彼が二十歳過ぎからすでに持っていた直感で、この「新憲法私案」でも出てきます[写真3]。彼は後年、自らの歴史研究によってその考えを補強していくことになります。彼の日本史研究には、作業仮説をあらかじめおいて、資料研究によって、その仮説を検証ないし補強していく側面が強かったこともわかります。

写真3:新憲法私案

写真3:新憲法私案
資料番号:FoLs MSS 2015/02/01-06-02

3:「カント哲学の『黄金の鍵』」

────今回は高校時代の資料も一部公開しました。

出口──高校時代の資料は、いまの国立台湾師範大学に当たる旧制台北高等学校(以下、台高)の記録としての意味もあります。
先日、台湾師範大学(師大)を訪問する機会があったので、図書館の上階にある台高の記念室にも立ち寄りました。記念室は、台湾の学生と日本人の教師に関する展示が中心で、日本人の学生に関する資料はほとんどありませんでした。だから有名な卒業生として名前が挙がっているのは、李登輝など、全員台湾の人で、上山を含め日本人は見当たりませんでした。台北高校は、民族によって入学できる学生の数が決まっていたようで、台湾からの学生は1割程度──そのため台湾の中国系のトップエリートが進学する学校でした──に留まり、日本人の学生が多数を占めていました。おそらく、師大は、戦後ずっと国民党の影響が強いところなので、日本の占領期のことや日本人のことをあまり表に出さないのだろう、というのが私の台湾の友人の推測でした。
近年、コロニアル研究やポスト・コロニアル研究が研究分野として確立するなかで、日本植民地時代の台湾も盛んに研究対象としてとりあげられています。上山の台高時代の文章は、このような植民地時代の台湾研究の素材としても非常に重要な資料だと思われます。

4:「講書始の儀」

────1995年の講書始の儀(「日本の国家について」)の資料は、講義の原稿らしき資料もいくつかありましたが、どれを公開すべきか迷った末に目録だけの公開としました。

出口──これがおもしろいのは、草稿だけでなくて、宮内庁とのやりとりの手紙等も残っているところです。講書始の儀がどういうかたちで運営されているかを、ここから知ることができます。前年の講書始の儀を聴講するところから始まって、途中のやりとりを含めて、当日の御進講の原稿まで、時系列で資料が残されているので、全体として講書始の儀のドキュメント資料となっているわけです。

────いま福井謙一先生の資料を整理しています。福井先生も御進講をされていて、原稿をやはり保存されていますし、関係する書簡も少しありそうです。京都大学のほかの先生の資料にも含まれている可能性は高いはずなので、今後はシリーズで閲覧できるようになるといいのかもしれません。

出口──御進講をされている京大の先生方は多いですよ。意識的に保存していただければ、将来の歴史研究の格好の資料になると思われます。
上山がおもしろいのは、20世紀の激動の時代と彼の人生が密接にリンクしているところです。ひとりの哲学者とか思想家ということに留まらず、戦前から戦中を経て戦後の日本の社会、もしくは政治の流れにいろんなかたちで関与した、ないしは関与せざるを得なかった人物なので、戦前の台北高校時代の資料、戦争に行く直前の卒論、戦後の憲法草案、平成の御進講の資料といった、時代と密接に関わった資料がいろいろ出てくるわけです。ここにあるのは、近代日本において、もっともドラマティックに変動する社会を生きてきた世代の一人が生涯をかけて遺した資料なのです。

アーカイブズへの期待

────今後、どのような利用が期待できますか。

出口──今回の資料が公開されて喜ぶのは、日本学、とくに日本の思想史で博士論文を書こうとしている人たち、とりわけ海外の大学院生ではないでしょうか。僕の印象では、日本国内の思想史・哲学史の大学院生はわりと保守的で、研究対象としてすでに確立されている人物以外はあまり取り上げない。でも海外でのPh.D.論文では、むしろ新しい対象が取り上げられることも多い。上山の未公開資料に海外の研究者のほうが関心を寄せるのではと想像するのは、そうした理由からです。
日本研究の研究者は、海外にも数多くいます。彼ら彼女らのなかには、新しいトピックをいかに掘り起こすかを重視している人も多く、近年は、戦後の占領期の社会や文化に焦点が当てられてきています。というのも、占領期の機密文書の非公開期間がこの20年ほどで切れて、現在、多くの資料が公開される時期にあっています。そのなかには、研究のネタが山ほど詰まっているわけです。有名な成果として、ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』がありますよね。あの本で多く扱かわれているのは、マッカーサーに送られて来た手紙などGHQが所有していた資料です。
このような占領期に関する研究の進展を受けて、その時代において個々の思想家がなにを考えていたかに今後注目がさらに集まると思われます。その意味で、京大の教員や関係者によって、占領期も含めた戦後期の草稿等がアーカイブズとして利用できるようになれば有意義だと思います。このような戦後資料を、本人が亡くなったことをきっかけに遺族が公開しようとする動きも増えてくるのではないでしょうか。
現在、アジアの国々でも日本研究が盛んになりつつあります。そのひとつの理由として、近代日本が、アジアの国々の今後を考える際に、良い意味でも悪い意味でもモデルケースとなりうるということが挙げられます。非西洋社会で、自然科学がこれほどまで社会に根付き、ノーベル賞受賞者を輩出した例は、まだ他にありません。哲学思想分野でも、京都学派など、独自の哲学のムーブメントを生み出したケースは、これまた非西洋世界では稀です。一方、アジアに対する侵略戦争を引き起こし、学界もそれに加担したあげく無残に敗北し、戦後は公害問題も経験し、さらに原発事故も起こしています。このような日本の特徴は、日本人が思っている以上に、海外から見たほうが際立って映るため、日本の文化や学術史が、今後、世界でますます注目を集めていくだろうと思います。そうした海外での日本研究を後押しする役割を担ってもらうことも、京大の研究資源アーカイブには期待しています。

出口康夫先生

[2018年6月11日、京都大学文学研究科出口研究室にて]

出口康夫(でぐち・やすお)
1962年生まれ。分析アジア哲学。京都大学文学研究科教授。著書=Nothingness in Asian Philosophy (Routledge, 2014); The Moon Points Back (Oxford UP, 2015); What Can’t Be Said (Oxford UP, forthcoming)ほか。